昭和四十八年七月十六日 朝の御理解
x 御理解第六十四節 
「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ」


 信心して徳を受けて身しのぎをするようになれと。お願いをする。
おかげを頂く、いうのではなくて、信心が段々出来ておれば、お願いをせんでも、神様の方が先回りをして、おかげを下さる働きが受けられるようになる。
 私は、そういう信心が身しのぎができる信心だと思うですね。自分で自分のことくらいは出来るようになると、言う面もありましょう。けども、信心して、身に徳を受けて、身しのぎをするようになれということは、勿論私どもは生身を持っておりますから、痛ければ痛い、痒ければ痒い、難儀な問題があれば、その問題を通してお願いをさせてもらう。勿論それがおかげになると感じられるような、おかげになって行く。
 けれども、私どもは、その頂くおかげというのは、そういうお願いをしただけでよいかというとそうではない。それこそお願いもしていなかったこと、それが成就してくる。神様が先回りをして、おかげを下さるようになるのも、これはすでに身に徳を受けて行きよる証拠です。ですから、自ずとそこに、身しのぎの出来るような、誰も願いもせん頼みもせんのに、おかげを受けておる。ところが、そういうおかげが段々大きく育って行き、そういうおかげが段々、もっともっと垢抜けのした大きなものになって行かなければならない。
 昨日、久留米での講演会を皆で聞きにやらせて頂きました。大変な盛会裡におかげ頂いて、帰って参りましたら、家内が「善導寺の原さんが亡くなられました」とこう言う。私どもが久留米に発ちましてすぐ後にお届けに見えたらしい。ですから、発つ時にはすでに亡くなっておられたようです。
 けれども、私は昨日から、お礼ばかり申しておりますのは、亡くなったということではないです。原さんこそですね。身に徳を受けて、身しのぎが出来るようになっておられたなということです。それをね、御自身御一家が気付いておられないということです。私は、これはどうでも気付かないとですね、有難いというものになってこないんですよ。
 例えば、椛目、合楽を通してですね、もう二十何年になられますでしょうか。昌一郎さんがいよいよ駄目だと、もう今日は難しいというので、親族の方は、お葬式の準備までして集まられたという程しに、の病気でした。それがおかげを受けられて、それこそ天に任せて、地にすがるというか、一生懸命の御信心でおかげを頂かれて、あのように元気になられた。
 その時に、原さん達夫婦がですね、これは神様に約束をする。誓う。例えばですよ、今度の夏期修行があっとります。今度はどうでも一月間参り通させて頂きますから、というてお届けをしとってもね、それが出来ないのが普通です。多いです。それをやり抜いておる人も沢山あります。けれども二十数年間ですね。夫婦の者がやり抜いて来ておるという事は、素晴らしいですね。
 どんなに考えても、「昌一郎の命を助けて下さい。その代わりに、私どもの命のある限り、手足の動く限りは、御信心を止めるようなことは致しません。お日参りを止めるようなことは致しません」 ああ、あげなことを約束してしもうたというのではなくして、一時はそんなこともあったかも知れません。けれども辛抱しぬいておられるうちにです、もうそれは御礼参りと言った方がいい様なものになってしもうておられたということです。
 最近この一年余りですか、昌一郎さん達夫婦、いわゆる二夫婦が揃うて朝参りが永年続いておるなんて、これはもう、本当に素晴らしいことです。それは、信者一同がうらやましいと思うくらいです。
まあ、どちらかといえば、原さん、御主人の方は、どこにおんなさるやらわからんようなおとなしい方だし、そう矢面に立たれるようなことも、表面に立たれるようなこともなかったですね、御広前では。
 けれども、それをやりぬき続けておられたということ。神様にあんな約束をしとるけんでもです、それは今言うように、一月間の夏期修行ですら、神様に嘘を言う結果になっておる人がいくらもあるという事です。それは、私達は一生朝参りを続けますという人達は、何人もお取次さして頂いとりますけど、続いていないです。
 けど原さんの場合はね、本当に歩いてやら自転車やら、最近はおかげを頂いて、車で、一家中が、毎朝御祈念にお参りが出来る。これは本当に、改めて、私は、素晴らしい。本当に、お礼申さして頂いておりましたら、今日の御理解です。
 そして、んなら、身しのぎとはね、そういう風に一生懸命参るというだけでなくて、あそこのことを思うてごらんなさい。娘さんが三人、それは、あの時分はお洋服屋さん大変繁昌しとったようだけれども、盆、正月には借金払いが出来んで困っておるといったようなことが、その当時の現状であったと言われる。
 そうばさらか、繁昌しとると思われんばってん、借金は払うてしもうた。そして残るということもないけれども、おかげで、その日その日のおかげを頂いておるということ。しかも、店もあのように立派になり、お家も裏に神様の部屋が出来るようにおかげを頂かれ。
その一人一人の子供達の上にも、それは実に神ながらなおかげ頂いて、さあ、嫁をとらねばならぬ、嫁にやらねばならんという時には、もう必要な時に、必要な物が、必要なお金が集まっとるというような、ここ二十年間ということです。もうこれもちょっと驚きです。
 それは、いつも私が言ってますように、原さんは言うならば合楽のおかげの小形のようなもんだと、いつも言うでしょうが。必要なものが必要に応じて、必要な金が必要に応じて、さあ家をああして、あつかわねばならんという時には、それこそ向こうから「この金を使うときなさい」と、まとまった金を持ってくる人があったり、さあ娘が嫁入りといや、本当におかしくない。言わばしつけもしてやって、嫁もやりゃ、嫁も取られるというような、もう子供孫達の上に至るまでです、成程、身凌ぎのおかげの頂けれるというのは、このことだ。
 して見ると、身凌ぎの徳を受けておられたということになるのです。けれどもですね。いわゆる、合楽の小形でありますからね。何か、おかげ頂ききらんような感じが、いつもあったですね。これだけ信心しよるばってん、余りおかげ頂ききらんというのが。原さんの内容の中にあった様な感じがするです。その証拠に、喜びが生々としたようなものが、本当にお礼参りだけで良かったというのでなかったような感じがします。
 だからね、銘々自分で気付かなければいけない。ああ、私達はこれは身しのぎの徳を受けよるばい。だから、というところに楽しみが生まれてくる。なら、この信心を育ててさえ行けば、この信心に徹底してさえ行けば、いよいよ合楽と共に繁昌して行くことが出来るという、見通しもつけば、明るい希望も、頂けれるわけです。
 なら、皆さんの中にでもです、本当に必要なものが必要に応じて、それは型は小さいかしれんけれども。いわゆる合楽流というか合楽型にです、なら、合楽の中村さん、合楽食堂なんかそうですよ。本当にいくらいくら払わんならんと思いよると、出来る筈のないところから出来るようなおかげを頂いとる。もうすでに身しのぎの徳を受けよるわけです。
 してみるとです、身しのぎの徳を受けよると慢心するのでなくてです、この徳がいよいよ成就さえして行けば、大きくさえなって行けば、おかげも大きくなって行くということはわかるのですから、そこに何とも言えん信心の喜び、信心の希望というものが感じられるようにならなければならない。
 私は、原さんは、そこんところを気付いて、まだまだ一生懸命信心しておかげ頂かにゃということばっかりであって、現在こうしておかげを受けておるということに、心の底からお礼の言えれるような、信心に気付いていなかったような気が致します。
 これは皆さんの上にも思うて見て下さい。合楽の御神縁を頂いて、五年十年と信心が続いておられる方なら、これは絶対です。そういうおかげが、もうちらほらと、自分の周囲に感じられているです。
神様の働きちゃ恐ろしか、本当にお願いもせんのにおかげを下さるという。
 ですから、そこにです、私は気付かせて頂いて、いよいよその身しのぎの出来る信心もです、まあ、例えて金銭でいうならば、人間の身しのぎが出来る。千円のその日暮しが出来るなら、一万円のその日暮しが出来るようなおかげになって来なければならない。
 それにはね、私は、信心の言うならば、喜びというか、お願いお参り的な信心から、「ほんに自分どんの信心が、こげなおかげを頂いて」という、その「こんなおかげを頂いて」と言うところに、頂き足らんような思いがあるのじゃないでしょうか。
 よそばっかり見て、自分の手許の所の、そんな素晴らしい、原さん一家のことなんか、もうこれは一切の上です、原さんの場合なんか。人間関係だけではありません。経済関係のことだけではありません。健康だけのことではありません。もう皆がそのおかげを頂いとる証拠にはです、なら、家族を挙げて、嫁に行っている婿達も、子達も、言うならば、自分のところで、一時は長男の嫁の上に、あの人が信心が出来るならと、皆が祈りを持っておったが、最近は、嫁が先に立ってお参りをするような、熱心、毎朝毎朝言うならば一家を挙げて朝参りが出来ておる。
 言うなら、二十数年前、神様にお誓いしたことが、段々有難くおかげを頂いて、それが有難く出来てきておることを、有難いと感じていない、気付いていない、というような感じが致します。それで私は、改めて、そのことに気付かせて頂いてね、これは私ならと、一生懸命お礼を申し上げんならんと思うて、お礼を申し上げております。
 ああ、成程信心して徳を受けて、身しのぎをするようになるとはこういうことだ。「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子おかげを受けて、遠路の所を参って来るが」とおっしゃるが、おかげを受けて参って来て、御教えを頂いて、もういよいよ、合楽流というか、おかげがですよ、合楽的おかげが、それは合楽の小型ではあるけれども。皆さんが受けておられるという事実をね。もちっと私ははっきり頂いて、これに対する、お礼の信心になって参りますと、信心が生き生きとしてくると思うんです。喜びが増えてくると思うんです。いえ、これを育ててさえ行けば、おかげが大きくなると思うから、それを育てることの、今度は精進が出来てくる筈です。それが出来よらんです。
 日々の御教えを頂いておることは、もうその信心を育てていくことなんです。けれども何ともなしに、北野の中村さんじゃないけれども、神様から、おかげを頂き足らんと思とるじゃろうと、お叱りを受けたということですけれども。そういうものがね、例えば、今日的、今日、日暮しというかね、今日この神様からのおかげを頂いたということだけでも素晴らしいことですけれども、幾らか残らなければおかげと思わない。
 お金が要るといえば、「使うてときなさい」と持って来る程しのおかげを頂いとることに対して、「返さにゃんとじゃろうもん」というごたる風な、真から有難いということを感じてないということは、もう次のおかげが育たんです、それでは。
 そこで私は、昨日、講演会の中山亀太郎先生のお話を頂いてから思うことですけれども、中山亀太郎先生の、あの素晴らしい名調子にのった、御自分の御一生を語られましたですね。もう素晴らしい、自分がおかげを受けて来られたことですから、世の中で私ほど不幸せな者はあるまいと思うことが、自殺までも思い、自分の喉に、言わば刃物を突き立てられたということまであったという程し、そういう様に…。
 そりゃそうでしょうね。両腕がない、片足の一本足じゃもの、様々な難儀を通られる度に、自分のような不幸せな者があろうかと、やっぱり世を敢果なまれることもあっただろうと思う。それには、お母さんまでも一緒にもう心中しようとまで思われた。けれども、瞬間です。もう一ぺん親先生に陰ながらでも御挨拶をしようというて、お参りをさして頂かれた。
 そして表から御礼をして帰ろうと思われた時に、先生が御理解なさってる声が急に大きくなった。そして、「木や竹は折れる、金の杖をつけば曲がる。神を杖につけば楽じゃ」と、その声が表までも響いてくる大きな声じゃった。その時にハッとしたと、お母さんが述懐しておられたという話をなさっておられました。
 私はそこん所を聞くときに、身がズーンとずんずんしました。神様がこういう素晴らしい人をお育てになるために、本当にもう死ぬか生きるかという時に、陰ながら親先生にお別れしてという時に、そうゆう御理解を、何人かの方に説いてられた。ボソボソ、ボソボソ、お話をしとられたので、お話は聞こえなかったけれども、その御教えのところだけが大きく聞こえてきた。
 成程、「神様を杖につけば楽じゃ」と仰る。そこんところを頂いて、親子心中を思い止まって、今日のおかげを頂いておるのだという。その時分、親子でもう私のごと不幸せの者があろうかという、その思いからです、現在はです、私のような幸せな者が、世界中にあるだろうかと喜びにひたっておると。
 その辺のところがね、お互いの場合は、おかげと思うたり、おかげではないと思うたり、それがひとつも一線が引いてない。はっきりしていないということなんです。両手がそろうとるということだけでも、両脚があるということだけでも、実を言うたら有難い。
 昨日の昼の御理解に頂いたように、お生かしのおかげを頂いておるということがです、人間幸福の原点だということを、ここが分かった時に、一切が、もう物の葉ではないことになって来る。今日お生かしのおかげを頂いておるということが本当に分かったら、問題が問題でなくなって来る。
 私は、合楽の方達の場合はです、そのように例えて言うならば、身しのぎの出来るようなおかげを頂きながらも、それが小型であるために、それを未だ何か頂き足らんような感じで、有難いということを感じていないように思う。
 信心を頂いていることが、いよいよ有難いと感じ取っていないように思う。時には、信心しよることは「ああ、有難いことですばい」と言いよるかと思うと、「信心しよったちゃ、こんな難儀を感ずる」と、本人が、そこんところを一つもはっきりしてないということ。
 中山先生が言うておられました。「私は、またそういうおかげを頂かして頂くようになって以来というものは、まだ腹を立てたことがない」と言うておられます。というように、私どもは腹を立てる。
おかげを頂いて立たんごとなったばってん、時には立てよるというような。それが幸せと感ずる度合いというものがすっきりとはっきりとしていないということなんだと。というところに私はあると思うんです。
 合楽で朝参りをなさっている方達ならばです、それがもし一年も続いておるならです、もうこれは絶対というても良い程、もう身凌しのぎの出来る徳が身について来よるなあと感じられる、おかげが自分の身辺に表れておるはずだと。それを分かった時です、これは大変なことぞ。これを育ててさえ行けば、いよいよ合楽的おかげにつながって行くことが出来るという、それを育てて行かなければ、おかげも大きくならない。そして頂いとっても、頂いておることに気付かないでおられたのが、今日の告別式の御霊様に、「いっちょ、そこんとこを気付かなかったですね」と。今日は、気付かれるように御霊様に申し上げようと私は思うとります。
 本当に二十何年間、夫婦の者が、神様にお誓いをしたものを、それをやり抜いて行かれておるだけでも、「ああ、大した信心が出来たことじゃ。大したおかげを頂かれたものじゃ」と言うて良いわけです。何しか、一月の誓いすら、皆よう立てきらんじゃないか、偉いです。成程、身しのぎの徳を神様が与えなさるはずです。
 別にどう、さあ金庫にこれだけの預金がある。そりゃ立派な大きな家が建ったということではない。商売がジャンジャン繁昌しよる風でもない。けれどもです、本当に、原さんのお届けを、毎日毎日聞きますと、いつもそうなんです。必要な物が必要な時に、必要なお金が要る時には必要な金が、そげん無理せんなりに、おかげ頂いておられるということ。これはすでに身しのぎの徳を受けておられる。
 だからそれを、育てるということの楽しみを、感じきっておられなかったところに、これからの原さんの信心が、私はあると思うですね。
どうぞ。